冬。それは、自然と温かいものが恋しくなるような、そんな季節。

これはこの時期のとある日、ふと獣人と人間とのひとときをちょっとだけ覗いてみた、もしかしたら冬が好きになるかもしれない、そんなお話――…。

 

 

 

 


「寒いな…」

 

そう呟いたレオは、思わず毛が逆立ってしまうくらい冷たい冬風が煽ったマフラーを己の首に巻き直し、

乾燥してカラカラになった木の葉をくしゃりと踏みながら家路を辿っていた。

近所のスーパーから歩き始めてからまだ5分しか経っていないのに、どうも自分の中ではそれ以上歩いている気がしてならない。

 

まるで自然が静かに眠りについているようなこの寂しい道に感化されただろうか。……ありうる、な。

 

そんなことを思いながら自分におつかいを頼んだ彼女を思い出す。

どうも材料が考えていたよりも少なかったらしい。

夕飯の下準備をしている最中に気付いたようで、困ったように首をかしげていた彼女のお頭をコツンと小突いて足りない材料とスーパーの場所を聞くと、

彼女は眉尻を下げて“ありがとう”と笑った。

最初から頼めばいいのに、そういうことをしないのは昔からあまり変わらない。

 

ふ、と口元で笑って足元のアスファルトから目を上げると、彼女と同棲している自宅のすぐ近くまで来ていた。

二人ですむには丁度いいくらいの広さを持つアパートだ。駅からあまり離れておらず、それでいて周りの騒音はあまり気にならない。

レオは二階へと階段を昇りながら、右手に持っていたレジ袋を左手に持ち替えて上着のポケットに入っている鍵を探り、

やっと着いた玄関の扉をそれでガチャリと開け、暖房のきいた我が家に一歩踏み入れる。

 

「おかえり、レオ」

 

以前の誕生日にあげたエプロンを身に付けてキッチンに立っていたナツは、包丁とじゃがいもを手ににこりと笑った。レオは口元を緩ませて“ただいま”と返す。

両手両足では足りなくなるくらいやったこのやり取りに、少し前まで感じていた戸惑いは既に消えていた。

消えた代わりといっていいのかどうなのか分からないが、戸惑いの後に沸きあがってきたのは理由の分からない照れくささだ。

レオはまだ、この照れくささの理由を知らない。

 


【“君”という等身大の幸せ】

 


そもそも“おかえり”になんの意味があるのだろうと考えたことがある。

勿論、それは誰かが帰ってきたら言う言葉として自然と頭の中にインプットされてはいたが、それの意味は知らない。

だが、ふと我に返ってみると、何故こんなことを考えているんだと自分に呆れてしまう。

実際、考え始めたのは、年下の幼馴染であるナツと結婚して同棲を始めてからだ。

家族と共に過ごしていたときはこんなことを考えることなんて無かった。

 

「寒かったでしょ。急におつかいなんて頼んでごめんね?」

「気にするな、大丈夫だ」

「ふふ、ありがとう」

 

じょりじょりじょり、と前よりは上手くなった皮むきの音を聞きながら、レオは買ってきた生もの野菜その他を冷蔵庫に入れる(どうやらこれらはまた後に付け合わせるらしい)。

ふと、牛乳パックが視界に入り、少し考えた後それを取り出して、今度は食器棚からおそろいのマグカップを取り出した。

これは同棲が決まり、荷物が一通り片付け終わった翌日に、二人で買いに行ったものだ。

元は白い陶器に、青と藍色で模様が描かれた方がレオので、赤と桃色で模様が描かれた方がナツのだった。

 

「牛乳、温めるの?」

「ああ、お前も飲むだろう?」

「うん、これが終わったr痛…っ!」

「!切ったのか」

 

小さい悲鳴。

持っていた牛乳パックをテーブルに置いてナツの左手の人差し指を手に取ると、白い肌に赤い一線が滲んでいた。

レオは無意識にその細い指をくわえる。

傷口を舌で撫でれば、ひくりとそれが震えた。

 

「レオ、ちょっと…くすぐったいんだけど」

「我慢しろ、消毒中だ」

 

するとムッとしたようにナツの口がへの字に曲がる。

 

「そんなに気にすることじゃないよ」

「お前が大事なんだから仕方ないだろう」

「……もう」

 

ナツはそう言って俯いたまま、あとはこちらの好きにさせてくれた。

相変わらず綺麗な髪から覗いた耳が少しだけ赤いことに気付いて、レオはばんそうこうを貼ると、

その頭をくしゃくしゃと撫でた。思わず口元に柔らかな笑みが浮かぶ。

 

大事なのは本当だ。この彼女には暖かいものを着て、食べて、時間が許す限りゆっくりと過ごして欲しい。

怪我もなく恐れることなんて何一つないままに。

……なんて、少し甘やかしすぎだろうか。でも、今更この考えを改めることなんてできないことを、彼女に惚れた自分が一番よく知っている。

 

ナツが“じゃがいも、水に浸すから”と再び流しに向き合うと、レオはテーブルに一時放置した二つのマグカップをレンジに入れた。

ジー…ッと、橙の光が灯ると同時にくるくると中の皿が回り始め、マグカップも回る回る。

 

「なんか、遊園地にあるコーヒーカップみたいだね」

レオの隣でレンジの中を覗いたナツがそう笑った。

「たしかにな」

つられるようにレオも笑う。

「今度の休み、行くか?」

「え、いいの?」

「ああ。…とは言っても、寒いが」

「大丈夫だよ。私、冬は結構好きなの」

 

少し意外だった。そんなレオの内心が伝わったのだろうか、ナツは言った。

 

「冬って寒いけど、その分、温かいものを本当に“温かい”と思えるでしょ?」

「……すまん、つまり、どういうことだ?」

「ふふ、つまりね、レオの手って本当は温かいんだってことにも気付いちゃうって話」

 

“夏は分からないから”と、ナツは微笑む。そういえばつい昨日に握ったナツの手は、夏に触れたときより温かく感じたことを思いだした。

 

「ねえ、私、レオと結婚してよかったよ」

 

そう言ったナツは、左手の薬指に嵌っているエンゲージリングをそっと撫でた。

レオの薬指にも嵌っているのと同じそれを。

 

「不思議だよね、自分を産んでくれたお母さんやお父さんと一緒に過ごしてきた時間よりも、

いつの間にか自分が選んだ人と過ごす時間のほうが多くなっていくなんて」

 

それもそうだ。仮に、人の寿命が80歳だとして、両親と一緒に過ごしてきた時間が20年だとしよう。

そうしたら、自分が選んだ他人と過ごす時間は、血が繋がっている肉親と過ごした時間の三倍もの長さになる。

長い。そして、重く深い。二人一組で一緒に一生を生きるとは、そういうことだ。

そして自分は、“もう一人の自分”に彼女を選んだ。

 

「それに、好きな人に“おかえり”って言われるとね、胸がほんわりと温かくなる。“ああ、私、レオの元に帰ってきたんだなぁ”って思うの」

「帰って、きた…?」

「うん。でも、誰から言われてもみんな同じってわけじゃないんだよ。私はね、レオの“おかえり”が一番好き」

 

その笑みに、その言葉に。レオは思わず瞠目した。そして直ぐに、愛しげに目を細めた。


――ああそうか。これが、俺がずっと考えていた答えだ。“ただいま”と“おかえり”の意味は、


「…俺も」

「?」


――“ただいま、帰ってきたよ。お前の元に”と。“おかえり、待ってたよ”と。短い言葉に隠されたその思いを相手に伝えることだったのだ。

自分は無意識にそれを感じ取っていた。

だから、戸惑いが消えた代わりに出てきたのが照れくささだったのか。


「ナツに言われるのが、一番好きだ」

 

すると、瞠目した彼女は、次の瞬間には幸せそうな笑顔を浮かべていた。

 

「ありがとう」

 

こつん、と二人は額同士を合わせて笑った。

彼女と過ごして話すだけで、当たり前だと思って今まで見逃していた一つ一つの言葉の大切さを教えてくれる。

それは、こんなにも特別なのだと。

それが、そんなことが…こんなにも、幸せだと思えるのだと。

 

「愛してる」

「私も、愛してるよ」

 

休日に愛を伝え合って笑い合うのも、なかなか素敵だと思った。

 

END